アメリカ的に言うと安倍演説は限りなく謝罪に近いんじゃないかな?

まあ「謝罪」をキーワードにした一大イベントが終了したわけだが。また8月に向けて同じような騒動が繰り返されると思うと鬱陶しくて仕方がない。そもそも国によって「謝罪」の表現方法やその意味する所が違うのに、それを十把一絡げにして謝るの謝らないのと議論していても時間の無駄でしかない。

たとえば今回の米国議会における安倍演説だが、上院・下院議員も含めて一般的なアメリカ人はあれを謝罪だと受け止めている可能性が高いと思う。そもそも米国では、政治的・外交的な場面においても一般人の日々の生活においても、謝るということがめったにない。議論した上で自分が間違っていると思ったら、ただ単にその後の行動を変えることで反省の証とする。社会的にもそれで良いとされている。口先だけで謝罪を述べても行動が伴わなければむしろ軽蔑される。そんな国だ。そのようなバックグランドであんな演説を聞かされたら、普通はこの話者はかなり反省しているんだなと思われるだろう。

一方日本においては、謝罪は心の底からの反省の表出として捉えられている。謝罪によってその後の行動は縛られる。もし言葉に反して同じ過ちを繰り返せば、天罰が下るわけだ。まあ仏教的だ。ただこの仏教的な縛りは、実際に罪を犯したものにしか通用しない。したがって罪の意識を持たない大半の現世代の日本国民に対して、謝罪による縛りを適用しようとしても無意味だ。ここに書いたように、歴史を客観視した方がよほど効果的だと思われる。それに、ここからはぶっちゃけだが、日本が再び他国を侵略しようとすることなどありえないだろう。平和志向の強い国民感情は言うまでもなく、他国の軍事的な侵略なんて経済的にメリットのない行為を行う為政者が存在するのは拗らせサヨクの頭の中だけだ。慰安婦についても同じ構図だ。つまり謝罪という行為の(仏教的縛りという)実効性も怪しいし、そもそも縛ろうとしている行為自体が将来発生する可能性が限りなく低いのだ。

あとは韓国だが、ご存知の通り儒教の国だ。ここでは謝罪という行為は、人間の上下関係を定める意味を持つ。もちろん謝られる(正しい)方が上で、謝る(間違った)方が下だ。だから謝罪の「真正性」などという事がとりざたされる。例え国が正式に謝罪をしていたとしても、政権周辺で少しでもそれに反する不協和音が生じると、韓国の人々は自分たちが「上」だといったのは嘘だったのか!?と激昂してしまう。慰安婦問題はこの繰り返しで、拗らせサヨクやメディアが横から火に油を注ぐようなことをしたのでここまでこじれてしまった。まあ政治問題と切り離すことが難しい人権問題では良く発生する状況だとは思うが、本当に救うべき人々が置き去りにされた悲しい状況だ。

まあそんなこんなで、もろもろの事情を考慮すると安倍演説はうまくやったのではないかね。